Precious&Precious
藍沢玲奈、二十六歳。
パン製造メーカーのK社の企画部に所属している。このK社の企画部はお気楽志向で、毎年恒例の企画を多少アレンジしたものを企画書として提出するだけで仕事は終わる。時々忙しくなることはあっても、全ての職種や会社と比べた場合、明らかに『当たり』の仕事であった。
そこで毎日の仕事をこなし、仕事が終わればワンルームのアパートに帰る。冷蔵庫に入っていたおかずとごはんを温め、テレビを見ながら食べて、一人の時間を悠々自適に過ごし、ベッドに入る。
大きな幸せも大きな不幸もないまま暮らしていた――筈だったのだ。
しかしこれはどうだろう。
ワンルームで、三人寝転ぶのが精一杯くらいの広さであった筈の自分の部屋は、今は五人程の客が悠々と寛げそうな実家の部屋になっていた。
たまには帰ってこい、と電話越しに小言を並べていた母親は今目の前でスクランブルエッグを作っている。今は何をしているかも知らなかった筈の弟はテレビを見ながら食パンを頬張っており、こちらを一瞥すると「はよ」と挨拶にもならない言葉を返す。
「……おはよ」
そういえば、と玲奈も自分の姿を見下ろした。普段は毛玉のたくさんついたスウェットで寝ているはずなのに、今は高校時代のジャージを着ていた。食器棚のガラス越しに映る自分の姿は、眉毛が細く、髪の毛が波打っていた。大学時代はパーマをかけていたのだ。
(……これは、夢なんだよね?)
自分自身に問うてみるが、答えは出ない。洗面所で冷たい水を顔に浴びせても、何一つ変わるものはなかった。ただ麦の焼ける甘い香りに誘われるようにリビングに戻ると、母親が食パンを皿に移しながら、ぼやいていた。
「まったく、この会社は大丈夫なのかしら? この前も原材料の虚偽記載でニュースになってたわよね」
母親の視線を追ってテレビに目をやる。決して鮮明とはいえないその画面の中では、最早朝のお馴染みとなったリポーターが、とある食品会社の偽装事件について報道していた。
『食品の安全を守るような、そんな仕事がしたいです』
自分がエントリーシートに書いた、心にもない言葉。しかし確かに当時はこのニュースが持ちきりで、自分はこの言葉を使ってK社への内定を獲得したのだ。つまり今は――テーブルの上にある新聞へと目が移る。
「四月十八日……二〇〇七年」
昨日、先輩に頼まれて書類に書いた日にちは確かに四月十七日だった。但し、二〇一一年のである。
間違いなく、おかしかった。玲奈は全ての筋肉を硬直させた。たらりと汗が額を流れる。そんな様子を見て、弟の明は訝しげに眉を顰めた。
「姉ちゃんどしたの?」
「わ、私……」
焦りと同時に生まれるのは、バレてはいけないという思い。何故だかは分からないが、ここはごまかさなければいけないような気がした。
「……今日、学校行きたくないな」
「それですむわけないでしょ」
当然母親に却下される。しかし心配しているのは母親も同じようで、微かに皺の入った掌を額にあてる。懐かしい感触がした。
「ほら、熱もないんだから。いくらゼミだからって、今年最初のゼミをサボっちゃダメでしょ」
ゼミ。懐かしい言葉だ、と一瞬浸ってしまったが、すぐに思い返す。
今が二〇〇七年だというのならば、自分は大学四年であるはずだ。就職活動真っ最中だが、確かK社の内々定が出たのは二十三日。もうやるべきことは終わっていた。
本当は家にいるべきなのかもしれないが、母親に余計な心配をかけたくなかった。それとゼミにはこの問題に関して多少は頼りになるかもしれないあの人もいる。そう考え、玲奈は首を振った。
「やっぱり今日大学行くよ。ゼミも顔くらいは出さなきゃね」