Precious&Precious
 その後みっちり半日。
 休むことなく魔術を放ち続けたが、ノアがマナを感じることはなかった。風を使用した魔術だけでなく、炎や水を操るもの、シールドの魔術など様々な種類の魔術を試してみたが、マリーがそのマナの違いに驚くことはありこそすれ、ノアが何かを発見するということはなかった。
最初は高かった陽も、今はすっかり傾いており、東区域の空は薄っすらと赤くなっている。ここの空はまだ青いが、赤い夕空に侵食されるのも時間の問題だろう。
 アルドヘルムが気づいたように、マリーを見た。
「マリー、疲れてるんじゃないのか?」
「あぁ? 疲れてねぇよ」
 本当は体がどうしようもなく重かった。苛々した目でアルドヘルムを睨みつけると、彼は引きつった笑みを返した。
「いや、疲れてないならいいけど……そうだ、ノアは疲れていないかい?」
「足が疲れた」
 正直に答えるノアにほっとしたように、アルドヘルムはその手を離した。
「じゃあ少し休憩にしよう。最後に一通り試してみて、ダメだったらまた次の機会に、かな」
 そう付け加えて、彼はアシュレー達の方へと駆け出す。休憩を報告しに行くのだろう。むしろあれだけの長時間マナを操り続けてぴんぴんしている彼がおかしいのだ。恨めしげな思いをこめて視線を投げつけると、彼の足が途中で石につまずいた。心の中でほくそ笑むと、マリーはその場にぺたりと尻をついたノアを見下ろした。
「おいノア。お前本当に分からないのかよ」
 あれだけマナが流れているのに。と心の中で呟きながら。そんな彼はいつの間にか地面に木の枝で文字を書いていた。
 ノア、ノア、ノア。
 自分の名前を書いては消す作業。拗ねた子どもの動作にも見えるが、彼のキラキラと輝いた瞳にそんな様子は見られなかった。決して上手ではなく、よれよれとした線がようやく文字としてかたちを成している、といったものだ。
「お前、もう少し上手く書けないのかよ」
 思わずそう声をかけると、ノアは顔ごとこちらを向き、Vサイン。
「僕、文字も書けるようになったんだよ」
「下手な文字だな」
 そう悪態をついてやると、ノアはむっとした表情で、木の先でマリーの額を突いた。先程まで地面を引っ掻いていたそれは当然丸まっているはずもなく、前髪半分隠された彼女の額に赤い傷をつける。
「てめっ、何すんだよ!」
 しかしその時、とあるにおいが鼻をついた。先程魔術の練習をしていた時とはまた違うマナの流れ。そして兵士ではない――もっと殺気を感じる『におい』。
「――伏せろっ!」
 反射的にノアの頭を地面に押し付け、自身もその場に蹲る。その刹那、地面を揺るがすような炸裂音と目も開けていられないほどの光が辺りに広がった。
 土ぼこりが舞い上がり、瞼で覆われている目に刺激をもたらす。しかし無数の足音が距離の近づいた地面を通して聞こえてくる。そのまま目を瞑って蹲っているわけにもいかなかった。
 ノアの手を引っ張り上げ、立ち上がる。アルドヘルムやアシュレーの声が一方から響いた。そちらの方へ体を向ければ、風で砂を払った術兵達が駆け寄ってくるのが見えた。
「何だよこれは!?」
「恐らく暴動です」
 アシュレーが杖を構えながら言った。
「時々、コウライ教の過激派によって風車を壊されそうになるという暴動が起こります。まさか首都で起こるとは思わなかったのですが……我々も油断していました」
 首都は東西南北全てが高い塀と衛兵によって守られている。暴動だろうが何だろうが、首都にとって害になる要素が街に入るのは難しいはずだった。しかし――術兵の一人が叫ぶ。
「虎です! 虎がいきなり山から現れて……それからコウライ教の者達が進入してきた模様です!」
「はぁ!? 何だよそれ、おかしいだろ!」
 思わず叫び返したが、微かに聞こえる低い唸り声に、息を呑んだ。
 微かに湿り気のある、石を転がすようなゴロゴロとした音。ゆっくりと振り返ると、そこには確かに三匹の虎がこちらを睨みつけていた。
 森の中では見たことない、山に住まう虎だ。その口からは唾液に覆われた牙が見え隠れし、両目が夕陽を反射してギラギラと異様な輝きを放っていた。ゴロゴロと再び鳴いた虎は、その瞬間、一気に走り出した。
 剣を構え、応戦しようとするが、その前にアルドヘルムが結界を張る。ドーム式のもので、虎達はそこにぶつかると、ボールが弾き返されるかのように後ろに下がった。
(言葉紡ぎなしの突発魔術……やっぱりコイツ、只者じゃねぇよな)
 そんなことを思いながら、マリーは指揮を執っているアシュレーを見やった。
 彼は術兵に命令を下しては、兵士を結界から追い出していく。落ち着いたその態度は、確かに隊長という地位に相応しいものだった。
「食料がないわけでもない虎が、こんなところに来る訳がないんだ。誰かがこの虎を嗾けたか操っているかしている。まずはそいつを捕まえろ。虎は俺がひき付ける。
 それから第四、五班は守護者と共にノア様の護衛! 通信班は各区域及び城へ連絡。残りはコウライ教の奴らを片付けろ。ゼロでない奴がいる可能性もあるから、気をつけるんだ」
 アシュレーはアルドヘルムを一瞥し、ため息をつくと、彼の肩を叩いた。そして結界の外に飛び出す。何か特殊な魔術でもかけていたのだろうか、虎は狂ったようにアシュレーを追いかけ始めた。
それだけではない。気がつくと、護衛以外の術兵たちは散り散りになっていた。更に驚くことに、砂埃が完全に晴れた時には、既に何人かのコウライ教の者らしき人物は捕らえられていた。


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