Precious&Precious
「……いいのか? お仲間一人放っておいて」
 目の前にいる彼とは違う、もう一つの気配。恐らく戦いなどとは無縁な場所で平和に暮らしてきたのだろう。
 指摘してやると、男は思い出したように手を打ち、と気配のするほうへと顔を向けた。
「ノア、彼女は悪い人じゃないよ。こっちにおいで」
 神話に出てくる人物と同じ名前とはまたご大層なことで、とマリーが思っていると、木の影から、ひょっこりと黒い影が飛び出た。それはとても小さく、外見で言えば十歳にも満たないのではないかと思うほどだ。その影は日に照らされるにつれて輪郭と彩りを帯びていく。そして濃紺の髪の毛と、くりくりとした丸い瞳、ぶかぶかのマントと、そこから出る細い棒のような手足を晒した。
「この子は俺が保護した子どもなんだ。君もこの子と一緒に首都まで送っていくよ」
「俺は首都には住んでねぇ。首都に用はあるがこいつらを処理してからだ」
 そう言ってヤクベアの山を顎で示す。そこで引き下がれば良いものを、男は更に食い下がった。
「もしかしてイース町の子かい? だとしたら今から森を出たとしても、町に着くのは夕方だ。危険だよ」
「イース町にも住んでねぇ」
「え、じゃあどこに……」
「だから俺はこの森に住んでるんだよ。四年前からな」
 そこまで言って、マリーは慌てて口を塞いだ。やべぇ、こいつもしかしたら。
 そうでありませんように、と願いを込めて男の表情をそっと窺う。しかし先程の魔術を見る限り、この男がそうであるのは間違いないような気もした。
「だって君、『エリート』じゃないか。エリートの女の子が何だってこんなところで」


 外の世界には、モンスターや毒を持った植物など、危険なもので溢れかえっている。
 しかしそれを実感できる者はあまり多くはない。街で暮らしているもののほとんどは、外の世界に足を踏み出したことはないのである。
 街にはマナによる結果が張られ、マナの供給を特別多く受けている兵士達によって、治安が守られている。
 そしてそのマナは、人間の体内から採取される。国民としての登録をする際に採取されたマナが、『契約者』の力で増幅され、街に配給されるのである。
 人間が持つマナの量は人によって違う。基本的に採取するマナの量は比率で決まるので、マナの量が多ければ多いほど、国に渡るマナの量も多くなる。国民は持っているマナの量で『エリート』『ノーマル』『ゼロ』という階級に分けられ、待遇が変わっていく。
 それが、この国にとっての常識であるし、国が望んでいることでもあるのだ。


「やっぱりばれたか。お前もエリートなんだな」
 エリートの中には、相手がどのくらいマナを持っているのかが分かる者がいるという。マリーにはそのような力はないが、先程ヤクベア相手に恐ろしいまでの速度で魔術を放ったこの男ならば分かるのではないか、と思っていた。
「エリートなのにどうして……もしかして君、セントヘルムの国民じゃないのかい?」
「一応国民だよ。もういいだろ、別に違法行為をしてるわけじゃないんだ」
 もうこの男と話したくはなかった。重く、どす黒い記憶が胸の中にじわじわと広がっていく。それを意識の外に追いやろうと首を振り、二人に背を向けた。しかし今度は、ノアの方から声がかかった。
「ねぇオマエ?」
 口調は芯もあり、しっかりとしているものの、言葉遣いはよろしくない。恐らく言葉をきちんと覚えていないのだろう。そうマリーは思いながらも、振り返ることはしない。
「ずっと、一人で住んでるの?」
「だからどうした」
「カイブツと戦ってるの?」
「そうだよ。だからその男に助けられる必要もなかったし、むしろ迷惑だった」
 ノアの高い、幼さのある声に苛々が募る。ダメだ。思い出すな。思い出すな。
「オマエ、強いの?」
 あの日と同じ、深い森の中。
「少なくとも軍人に保護なんかされてるてめぇよりはな」
 あの日と同じ、小さな手足。鳥肌が止まらない、寒い日だった。
「じゃあ、僕のこと守ってくれる?」
 気づけば、鞘から剣を抜いて少年に突きつけていた。男が目を見張ってロッドを構える。
 ノアは震える瞳でマリーを見上げた。その瞳は日に照らされて海のような青さを映し出す。その時、マリーは初めてこの少年と目を合わしたのだと気づいた。
「ざけんじゃねぇ! 何で俺が誰かの為に動かなきゃいけねぇんだよ。俺は俺でやる。だけどてめぇがどこで野垂れ死にしようが殺されようが関係ねぇ」
「ちょっと、君、何てこと言うんだ!」
 男が口を出してきたが、今度はそちらへと剣を向ける。やばい、捕まるかもしれないな。そう思ったが、体は石のように固まり、動かそうと思っても言うことを聞かない。ノアはしばらく呆然としていたが、やがてその小さな拳を硬く握り締めると、マリーを睨みつけた。
「そんなこと、できないよ」
「へぇ、じゃあやってみろよ?」
 この挑発にのったのが、全ての始まりだったのかもしれない。ノアは大きな目の間に皺を寄せたまま、男の方へと顔を向けた。


←前へ