Precious&Precious
 一定の方向へと流れていた風が、マリーとヤクベアを取り巻くように集まる。それと同時に、淡い光が模様を描きながら地面に広がっていった。
 それは巨大な魔方陣だった。魔術を使う者が、この世の『マナ』を集め、言葉紡ぎ――いわゆる詠唱によって具現化するための媒介となるものである。どんな魔術なのかも、魔方陣と魔術師の詠唱を聞かないと分からない。しかしマリーにとってはそんなことはどうでもよく、その魔術が発動する範囲内に、自分が入っているという事実だけが頭の中を占領していた。
「嘘だろっ」
 魔方陣が展開してから、魔術が発動するまでの時間も、使用者の能力による。とにかく一刻も早く発動圏内から脱出しなければならない。マリーは右足で大きく地面を蹴り、飛び出すような勢いで脱出しようとした――しかし。
 耳を劈くような轟音と光がその瞬間、辺りを覆いつくす。何が起きているのか分からない状態の中で、マリーは目をつぶった。否、開けていられないほどの衝撃だったのだ。
(間に合わなかった!?)
 しかしそれにも関わらず、自身の重みは確かに存在している。風に切り裂かれるような痛みも、炎に焼き尽くされるような感覚も、地面を蹴り飛ばして浮いたまま――そんな感覚を確かめている間に、腰のあたりに強い衝撃が走った。
「ってぇ!」
 声をあげてから、それが地面だと気づく。目を開けてみると、そこは元通りの風景だった。
 鬱蒼と茂った森の中の、ぽっかりと開いたヤクベアの住処。自分の腕は己のではなく、確かにヤクベアの返り血で濡れているだけだった。打ち付けた腰をさすりながらも立ち上がり、あちこちを触ってみるが、痛む腰意外に怪我はない。
 そして振り返ると、マリーは思わず固まった。
 先程まで自分が戦っていたヤクベアが、たくさんの傷を晒してそこら中に倒れているのだ。先程マリーがつけた傷ではない。もっと綺麗で、相手の急所を的確に狙った傷だった。
「大丈夫かい!?」
 突如聞こえた男の声に、マリーは剣を握り、腕をばねにして立ち上がった。いつでも応戦できるようにするためだ。
 相手を威嚇するように目を細め、声のする方を振り向くと、若い男がゆっくりと歩いてくるのが視界に入った。
 こげ茶色のベストに赤いライン。それはセントヘルム国の軍服だった。セントヘルム国は兵科によって装飾やボタンの位置など、細かい部分は違うが、大体が統一されている。腰のベルト部分から広がるスカートや、細身の洗練されたブーツ、そして彼の持っている六十センチほどのロッド。それは彼がセントヘルム国の、それも術兵であることを顕著に表していた。
 男は警戒の色を隠さないマリーを安心させるように、ふわりと微笑んだ。戦闘よりは医療などを得意としているような雰囲気さえ感じさせるが、そんなマリーの予想は後に見事に裏切られることになる。マリーは目線を和らげることなく口を開いた。
「セントヘルムの魔術師か」
「あぁ、それにしても危なかったね。ヤクベアは集団で人を襲うから、仔を見つけてもついていっちゃいけないんだよ」
 恐らく彼は彼女を森に迷い込んだ少女だと勘違いしているのだろう。しかしその彼の勘違いは、只でさえ溜まっていたマリーの怒りのボルテージを一気に引き上げた。しかしここで軍人と問題を起こしても何も良いことなどない。マリーは舌打ちし、吐き捨てるように言った。
「わざわざどうも。だけど俺はこのヤクベア達に用があったので、別にもう帰ってもらって構わないっスよ」
「そんなわけにはいかないよ。俺が首都まで送っていくから」
 彼は親切に対応しているが、マリーにとっては迷惑以外の何者でもない。彼女はため息をつくとヤクベアの山へと歩いていった。後ろで慌てた声が聞こえる。そもそもどうして軍人がこんなところに一人でいるんだ、と言おうとして、彼女はふと気づいた。


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