Precious&Precious
「そこを動くな」
 夕方に聞いたばかりの、柔らかな日差しに包まれるような男の声。それは夜の闇の中でも吸い込まれること泣く真っ直ぐと響き渡った。気がつくと、二人の下には魔方陣が展開されていた。森で見たものと形は多少違うが、恐らく攻撃魔術だ。彼――アルドヘルムの目がそう語っている。
「……守護者か」
 剣の先を突きつけたまま、男がようやく口を開いた。凛と響いた冷たい声は、しかしまだ幼さを残すものだった。
「まずは剣を捨てるんだ。それから両手をあげて」
 アルドヘルムが警告すると、男はゆっくりと剣を降ろす。喉元に感じていた殺気と違和感がふっと失われると、全身からどっと力が抜けた。今更のように脂汗が噴出す。男はそんなマリーを一瞥すると、ローブを勢い良く翻した。アルドヘルムの視界からは二人の姿が見えなくなるかたちとなる。更にマリーの視界にローブが覆いかぶさり、何も見えなくなってしまった。
「うわっ」
 慌ててローブを剥がすと、既に男の姿はなかった。その代わり、別の場所で地面を蹴る音が響く。振り向くと、二つの影が港方面へと走り去っていくのが見えた。呆然と眺めていると、アルドヘルムが駆け寄ってくる。
「今レクターが後を追ってくれている。大丈夫かい?」
「大したことねぇよ。くそっ、明るければもう少しまともに戦えたのに……!」
 彼の差し出した手を叩きつけ、歯噛みする。しばらくそのまま黙っていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「そういえば、どうしてこんな所にいるんだよ?」
「ノアが教えてくれたんだよ。もしかしたらマリーが危ないかもしれないって」
「はぁ?」
 相手が残したローブは市販品のようで、特に仕掛けもない。夜の冷たい風を防ぐのにちょうど良かった。
「ノアが急に真夜中騒ぎ出して、俺が呼び出されたんだ。そしたら『黒い髪の女の人が出てきて、殺すしかないって言ってた』って。よく分からなかったけど、とりあえずホテルへ向かった。その途中で、バーで騒ぎが起こったとかで出かけていたレクターと会って、君を見つけた」
 バーでの時間は無駄ではなかったようだ、と安堵の息を漏らす。しかしその安心しきった手を彼にいきなり掴まれ、再び戦慄を覚えた。アルドヘルムもその反応にびっくりしたらしく、慌てて手を離した。
「すまない、怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ、今夜は城に来た方が良いと思って」
 確かにそっちの方が安全ではある。しかし今の機会を逃したら、城から逃げられなくなってしまうのだ。マリーはしばしの間逡巡する。守護者になってから逃げることはできるだろうか。
(でも守護者になったからさっきの奴に狙われたんだとしたら、城から逃げ出しても……いや、守られながら暮らす位だったら死んだ方がマシだ)
「荷物もまとめた方が良いし、軍人としての配給だってまだ受けてない。君は今危険な状態にいるわけだしね」
「配給?」
 アルドヘルムの言葉に、マリーはぽかんと口を開けた。
 深い闇の中で、彼のほんわかとした笑みだけがぽっかりと浮かんで映った。


 翌朝になると、会議室に呼び出された。
 巨大迷路のような城内を五分ほど歩き回り、部屋にたどり着く。案内してもらったメイドに尋ねたところ、これが会議室までの最短ルートだというのだから驚きだ。城の中は、昨夜の出来事もあってか、多少慌しい雰囲気が漂っている。
 ドアを開けると、すでにそこには人が揃っていた。十五人ほどの席が置かれていて、奥にはアルドヘルムやレクター、そしてノアもいた。
 ノアはマリーの姿を見とめるなり、目を見開く。そしてゆっくりと口を開いた。
「お、はようございまぅ!」
 無視して椅子に腰掛ける。アルドヘルムが咎める視線を送ったが、それにも気づかない振りをした。
(大体、こいつのせいで守護者になっちまったっていうのに、何でこんな馴れ馴れしいんだよ)
 しかし、この小さくて生意気な少年がこんな言葉を覚えたということは。何となくこの後の展開が予想できた。昨日落ち込んでいたアゼルが意気揚々と立ち上がった。意外と立ち直りの早い人物らしい。
「皆さん揃ったようですね。まず、結論から入らせていただきます」


←前へ