Precious&Precious
 透明な膜で覆われた視界の向こうで、その大きな男は佇んでいた。城の中にもやはり大柄な男というものはいるが、彼らなど比べ物にならない。二メートルはあるのではないかというほどの身長と、がちがちの筋肉で覆われた身体。まるでオマケのようについている両目からは、それでも無視できないほどの殺気と鋭い意志が宿っていた。
 男はマリーの振るった剣を素手で掴んでおり、そこからは血が滴り落ちていた。しかし本当ならば流血で済む話ではないのだ。興味もなさそうに男は剣を一瞥すると、その場に捨てた。カラン、と音をたてて捨てられた剣はまるで玩具のようだった。
 草を踏みしめながらアシュレーが歩いてくる。気がつくと、術兵達が男を包囲していた。
「大人しくしろ、抵抗すれば命はない」
 大柄の男はしばらく周囲を見ていたが、やがてため息をつくと、その口元に笑みを浮かべた。下から眺めていたマリーだけがそれに気づき、辺りを見回す。
(何だよ、におい……さっきと……違う!?)
「おいてめぇ、危ねぇぞ!」
 マリーが術兵の一人に叫ぶと共に、草陰から何かが飛び出す。それは両腕で抱えきれないほどの大きさをした鷹だった。鋭い嘴が術兵の腕を切り裂く。男は悲鳴をあげてその場に倒れた。
「ヨアン!」
 違う草陰から再び黒い影が姿を現す。今度は先程倒したものと同じ虎で、そこには女性が一人、跨っていた。今まで暴動を起こしていた者達とはまったく異なる、華奢な女性だった。暗くてよく見えないが、明るめの髪を振り乱して、その女性は術兵へと突進をかける。アシュレーが持っていた細身の剣を投げつけると、一瞬だけ虎の動きが止まる。その隙にマリーが立ち上がって、目を狙って蹴りを食らわせた。装甲のついた重い靴は、多少なりともパワーを増強させる。とりあえず上に乗っている女性が狼狽する程度には。
 大きくのけぞった虎は、しかし次の瞬間には再び見えなくなる。誰かが煙幕弾を投げたのだ。目に沁みる煙に包まれていく視界の中で、再び結界が展開された。
「あいつら殺してやる! ヨアン放せ!」
「落ち着け、一旦引くぞ!」
 先程の男と女性の声が飛び交う。声を頼りに追いたい所だったが、結界から一歩外に出れば煙幕にあたり、目も開けていられなくなるだろう。剣も手元にない状態で、彼らを追うのは難しかった。
 それは他の術兵達も同じだったようで、視線を互いに交わしこそすれど、それ以上の追跡は行わなかった。
「……何だったんだ、あいつら」
 結界の中でアシュレーに尋ねると、彼は煙幕越しに彼らを追うような目つきで答えた。彼のぼんやりとした輪郭を見て、煙幕だけでなく、日が完全に沈んだことで暗くなったのだと気がついた。
「恐らくコウライ教過激派の者達です。あの大柄の男……見たことがあります」
「あの動物に乗ってた奴の方は?」
「あの女は初めて見ました……新戦力でしょうか。しかし、やはりどちらもゼロでした」
 アシュレーは拳を握り締めた。勝てる、という意思表示だろうか。マリーは煙幕が完全に晴れたのを確認してから剣を回収し、南へと体の向きを変えた。歩き始めると、アシュレーから声がかかる。
「アルドヘルム様、どうしていらっしゃいました?」
「今頃結界の中で茶でも飲んでるんじゃねぇのか」
 背を向けたままで答えると、それ以上の言葉は追ってこなかった。
走っている時はそんなに遠く感じなかった道をしばらく歩いていると、大勢の兵に囲まれたアルドヘルムとノアを見つけた。魔術による明かりに照らされて、光を求めた虫があたりを飛び回っている。それらをじっと観察していたノアは、マリーに気がつくと大きく手を振った。
「マリー!」
 アルドヘルムもにっこりと笑って手を振る。兵士達も敬礼で応えた。
「ちょっと負傷した奴もいるから、アシュレー隊長は後から来るって」
「そうか、マリーは怪我ないかい?」
 僅かの沈黙の後、マリーは問い返す。
「そう心配するくらいなら、手伝えばいいのにな?」
 そう言うと、アルドヘルムの顔が僅かに引きつった。周りにいた兵士達からも沈黙が生まれる。
(もしかして、何かワケありなのか?)
 だとしたら自分は地雷を踏んでしまったことになるわけだが。しかしアルドヘルムはすぐに微笑みを戻すと、マリーの頭を優しく撫でた。先程の男とはまるで違うが、大きな手だ。
無言で踵を返す彼の背中を見ていると、何かに腕を引っ張られるのを感じた。ノアだ。
「マリー、いっぱいカイブツをやっつけたの?」
 良く分からなかった。
 この国のことも、契約者と守護者の仕事も、ノアのことも、アルドヘルムのことも。
 今まで何にも関わってこなかったのだ。突然できたこの繋がりに、マリーは鉛のような重さを感じていた。自分の世界にたくさんの要素が投げ込まれる。それらを選別する時間もなく、ただ受け入れろというのだろうか。
 重い、うっとおしい。
 では何故、あの時自ら剣を抜いたのか。アルドヘルムに苛立ちを感じたのか。
 無言のままで歩き続けると、腕を引っ張っていた力はやがて弱くなり、するりと抜けた。


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