Precious&Precious
第二章


 ノアが新しく契約者となった日。それからの日々は、まさに怒涛のそれだった。
 最初はとにかく言葉を学ぶ。首都の国民へ宛てるメッセージを丸暗記し、新たな王者を一目でも見ようと詰め掛けた国民の前で簡単な挨拶をすませる。その間もどんなことがあるか分からない。四方八方で契約者を守るために布陣し、目を光らせている兵士がいなくてはならない。
また守護者であるマリーやアルドヘルムは、ノアの身辺警護だけでなく、彼自身のケアも行わなくてはならなかった。特に今まで人に囲まれたこともない少年が、いきなり人前で言葉を話すのだ。緊張しないわけがない。幸い、アルドヘルムの丹念な仕事ぶりによって何とか挨拶の場だけは切り抜けることができた。
 契約者交代により、セントヘルムは確実に変化していた。契約者がマナを持たないゼロであるという事実は隠蔽していたが、やはり子どもだという事実は隠しきれない。不満を持つ者も多くいる。
驚くことに、その変化は城の外ではなく、城の中で起こっているものがほとんどだった。それはノアが新しく契約者になって、十日が経過した今でも変わることはなかった。
「基本的に、今まで契約者に反対する人達はいなかったんだけど、今回に関しては問題が問題なだけに、契約者が気にいらない人もいるみたい。現に近衛連隊長のサイラス様はノア様のことを気に入っていない。行政部のアゼルに関しては執拗な嫌がらせもしてくるかもしれないわ」
 前代契約者、セレスのものをそのまま引き継いだその部屋は、まだ甘い香水の残り香が漂っていた。繊細な刺繍が施されたカーテンもそのままで、その下には三人でも横になれそうなベッドが置いてある。傍には鏡台も設置されており、指紋一つない程に鏡が磨かれている。ノアは不思議そうに鏡を覗き込んでは顔をいじくり、もう一人の自分が歪むのを面白がっていた。  エリートとのお茶会が趣味だったというセレス。彼女が残した小さなテーブルと、背もたれの角部分に宝石のはめ込まれた椅子は、現在マリーとアルドヘルム、そして一人のメイドに使用されていた。
「逆にノア様を積極的に応援している方もいるわ。この前マリー様が倒した四人の所属する隊の隊長、デール隊長は大丈夫よ。それから術兵部隊長のアシュレー隊長は中立派だけど、彼を慕ってる人物は多いから彼を見方につければなかなか強いわね。工兵部隊長のアーサー隊長は興味がないみたいだから無視して大丈夫よ」
 羊皮紙に細かくメモをしながら説明しているのはエリザ。城のメイド達をまとめるメイド長でもあり、城の中で相当の権力を持っている人物でもあった。彼女は栗色の髪を耳にかけて、ペンを走らせる。反契約者派と契約者擁護派を比べてみると、契約者擁護派の方が僅かに多い。しかし反契約者派には権力を持つものが多い。やはりゼロだということを知っていると知らないのとでは大違いなのだろう。
「メイド達については私に任せて。全員にノア様を認めさせるから」
「あぁ、何だか悪いな」
 アルドヘルムがぺこりと頭を下げようとするが、エリザはそれを遮る。
「やめてよアル、別に嫌々やってるわけじゃないんだから」
 アルドヘルムとエリザ、レクターは幼い頃からの友達だった。彼女がメイドにしては強い権力を持っているのも、二人の権力を盾に取ってのことらしい。彼女の侮れない部分はその事実を認め、その上で生じるツテや権力、情報を余すところなく利用しているところであろう。脅迫すればし返される。それが彼女に対する兵士達の噂だった。
 マリーは頬杖をついて、そんなエリザの書いたメモを眺めていたが、やがてため息をつくとぼそりと呟いた。
「別に俺は反対っていうなら喜んで出て行くんだけどな」
「守護者指名の契約を解く方法は、契約者自身がそれを望んで契約を解くか、死ぬかどっちかしかないんだよ」
 アルドヘルムが懇切丁寧な説明をするが、無論そんなことは知っていた。彼を半目で睨みつけると、そのままノアを呼んだ。未だに鏡と向き合っていたノアは、その声にすぐさま振り向き、とことこと寄ってきた。エリザがまぁ可愛い、とはしゃぐが、正直マリーは未だにこの生意気な少年の魅力が分からなかった。
「お前、結局今日はどこまで言葉覚えたんだよ」
「今日はマナ管理に必要な用語と、尊敬語と謙譲語。あとマリーと一緒にいると粗雑さが移るって」
「あのくそババァ!」
 部屋を飛び出そうとするが、アルドヘルムに羽交い絞めされたせいでそれは叶わない。せめてもの八つ当たりに彼の脛に踵蹴りをお見舞いすると、彼は短い悲鳴をあげてその場に蹲った。エリザがくすくすと笑みを零した。
「ジェマイマ先生は人を馬鹿にするのが好きなお方だから、仕方ないわね。でもあれで教え方は一流なのよ?」
「そりゃ知ってるさ。俺だってこの世界の歴史はあのババァから教わってるわけだしな」
 ジェマイマとはノアの教育係として採用された老婆だ。寿命五十年といわれるこの世界で、五十五歳という高齢はきわめて稀な存在になる。しかし彼女はまだ現役で、教育係こそ自分に相応しいと城に乗り込んできたというのだ。実は噂で聞いた契約者を近くで見たかっただけだというのだからまた不思議だ。
「この城にはたくさんの人がいるから、少しずつ名前を覚えていけば良いと思うわ。あ、でも私の名前は忘れちゃダメだからね?」


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