Precious&Precious
第一章


 草の匂いとも、日の匂いとも違う、独特の臭いと気配にマリーは目を開けた。
 日はまだ昇りきってはいないようで、東の空は明るくなっているにも関わらず、あたりは薄暗く、空気も冷え切っている。
 微かに吹く風は冷たく、思わず身震いしてタオルケットの裾を握って隙間を埋める。そうすると、じんわりと身体が温かくなっていくのが分かった。冷たい顔と、温かい身体の温度差がまた心地よい。
 しかしそんな肌寒い気候の中でも、旅商人のギルドだろうか、大勢の男達が騒がしい話し声を撒き散らしながら草を掻き分けて、首都の方角へと進んでいく音が聞こえた。
「……朝から元気な奴らだな」
 そうぼやき、そしてもう一眠りしようかと目を閉じたが、ちょうど食料がなくなっていることを思い出し、軽く深呼吸。勢いをつけて一気に起き上がった。体温を奪おうと躍起になるかのように寒さが襲い掛かってくるが、そこは我慢するしかない。マリーはぶるるとひとつ震えると、木の枝にかけていたジャケットを羽織った。首から腰までを覆う、硬い生地でできたジャケットはとても冷たいが、外気から身を守るのには十分だった。
 ばっさりと切られているベリーショートの頭をばりばりと掻きながら、水を張った桶に顔を映す。
 目は据わっており、若干やつれているようにも見える。恐らくきちんとした姿映しがあれば、その両目の下には薄っすらと隈ができていることも分かるのだろう。しかし彼女にとってそれは問題になるようなことではない。生活に支障は出ていないのならばそれでよいとばかりに、手を水の中に突っ込んで、もう一人の彼女の姿を歪ませた。
 顔に何回か水をかけるついでに水を口に含み、適当に洗顔をすます。顔を振って水を払うと、先程体にかけられていたタオルケットを近くにあった木の根元部分に押し寄せた。そして代わりに小さめの麻袋と剣だけを持って立ち上がった。
 早朝から昼にかけて、同じように餌を探すために辺りをうろつくモンスターがいるということ。
 狩人達に食料を取られる前に、こちらが動かなくてはならないということ。
 三年間ずっと、町の外でこうして暮らしてきたマリーには、それが分からないはずもなかった。


 セントヘルム国と同じ名称を持つ首都からほんの少し離れた場所に位置するウィルドの森。
 穏やかな気候と豊富な水によって大きく育った木々が空を覆いつくし、中央部は鬱蒼と茂っているが、それでも定期的に国によって行われるモンスターの討伐・木々の伐採作業によって、隅の方は平穏な環境が保たれている。
 このような作業が国によって行われることは珍しいが、理由は簡単である。ウィルドの森は首都セントヘルムへ行くためのただ一つの陸路だからだ。旅の商人や、任務を終えた軍隊の帰還などの際には必ずその森を通ることになる。
 しかしそれを実感できる者はあまり多くはない。街で暮らしているもののほとんどは、外の世界に足を踏み出したことはないのである。
 それが、この国にとっての常識であるし、国が望んでいることでもあるのだ。


 朝の森は薄暗くて、そして昼よりも騒がしさはない。
 首都セントヘルムからの喧騒が恐らく聞こえないからであろう。とマリーは思った。
 ざわめきほどの大きさでしか聞こえない音でも、あるのとないのとでは大違いだ。
 ツンとはった空気の匂いを確かめるように鼻をすすり、冷たい手を剣の柄に押し当てる。しばらく触っているうちに、それはお互い馴染むように温かくなった。微かに白い息を吐き、マリーは瞬きを何度か繰り返した。
「今日はやけに夜明けが遅いな」
 あたりは相変わらず闇がぼんやりと浮かんでいるかのように暗く、完全に朝になる気配はない。マリーはぽつりと呟きながら、近くに落ちていた木の枝を拾い上げた。
 そういえば薪も集めなくては。
 しかしガサ、という音に考えを止める。ちょうど斜め後ろ、低めのあたり。振り返ると、茶色いものが一瞬草の間から姿を現したが、すぐに隠れてしまった。
 それを見て、マリーはにやりと笑った。今のはヤクベアと呼ばれる、子どもを囮にして相手を誘い出し、集団で襲い掛かるモンスターだ。ただし彼らの肉は脂がのっていて大層美味であり、皮も高価な値で売ることができる。
「その誘い、のってやろうじゃねぇか」  舌なめずりをしながら、マリーは逃げ出したヤクベアの方へと足を向けた。


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