Precious&Precious
プロローグ
少年は顔を上げた。
それは誰かが彼の「名前」を呼ぶ声がしたからでも、目の前の掃き溜めに放られている残飯がなくなったからでもない。
薄暗く、複雑な通路がいくつも走っている細い裏通りの中で、その鬱蒼とした雰囲気にそぐわない大勢の足音が聞こえたからである。
しかし目の前には滅多にありつけないご馳走がある。ぱさついた鶏肉だって、彼にとってはそうだったのだ。
せめて最後の一口だけでも――そう思い、少年は掃き溜めから茶色の塊を一つ掴み、口の中に突っ込んだ。
ぱさついたその感触と異様な臭いは、しかし空腹を満たすという生理的な役割を果たすことには成功した。
その時、どさり、という音と共に、曲がり角から何かが転がる。
それは人、それも女性だった。薄暗い中でもはっきりと分かる、光沢のある生地のドレスを身に纏っており、黄金色の髪は細く地面に流れている。少年が気がついたのはそれだけで、彼女のドレスが大きく裂け、汚れていることも、左腕から大量の血が流れているにも関わらず、必死に右手だけを庇っていることも、彼は気がつくことができなかった。
女性は薄く目を開けると、のろのろと頭をあげた。その瞳は影に覆われた場所の中でも強い光を放っており、その瞳にとらわれた少年は、逃げようとしていた足を止めてしまっていた。
これから、なにが起こるのか。
足音が段々と近づいてくる。五人はいるだろうか。良く分からない怒声も聞こえた。女性は震える左腕を動かすと、庇っていた右手から、何かをとる。そして、それをそっと少年の方へとスライドさせた。
女性と少年の距離は五メートルほどで、しかし“それ”は一メートルも進まないうちに動きを止めてしまう。少年はゆっくりと足を進めると、何かを拾い上げた。
小さな輪に、きらきら光る石がついている。これは、指につけるものなのか。もちろん少年の小さな指には大きすぎるけれど。そう思って、女性を見下ろすと、彼女は震える手を、少年の方へと差し出した。
「あ……」
何日ぶりになるか分からない自分の声を聞きながら、少年は“それ”をもっていない左手をゆっくりと伸ばそうとした。
「見つけたぞ!」
しかし、それは突如聞こえた、鼓膜を大きく震わせる程の怒鳴り声によって妨害された。
少年はその左手をすぐに引っ込め、声のする方へと顔を向ける。そこには数人の男がいた。姿も体格もバラバラであるが、それでもその殺気に満ちた眼を見れば分かることがある。
彼らが彼女を追っているということ。
そして自分も、どうなるか分からないということ。
ギラギラと血に飢えた目で近づいてくる男達を、少年は指輪を握り締めて、ひたすら睨み続けた。
何も持っていない彼の、それでも捨てることのできない思いだけを支えに。