Precious&Precious
傷つく
『傷つきやすい』の定義とは何だろうか。
例えば、誰かに悪口を言われて泣き出してしまう。
例えば、被害妄想に囚われては錯乱してしまう。
例を挙げていたらキリがない。
私は窓の外を眺めながらため息をついた。
外では雨が降り出したようで、雨がガレージの屋根を叩く音と、時々車が水をはねながら走っていく音が家の中からでも聞こえた。太陽が隠れている為に世界がぼんやりと白く映る。
スーツが濡れてしまったらどうしようか。せっかく今日はこの前買ったものをおろしたのに。いや、そもそも雨が降りそうな日に新しい服など着るんじゃなかった。
しかし後悔しても遅い。私は冷たい窓に指を伸ばした。指を押し付けると、そのまま下に滑らせる。『バ』――
「何、してるんですか」
反対側からした声に私は慌てて振り返った。ぼさぼさの頭に、真っ赤な目。Tシャツにジーンズという一緒に外を歩きたくないような格好で現れた男は、私の前を横切って歩く。
「どこ行くんですか」
「洗面所。顔、洗わなきゃ」
まぁそんな泣きはらした目をしてちゃ、できる仕事もできないな。
彼は私の担当している作家だ。ただし、非常にやっかいな感性を持った。
「これに懲りたら、もうインターネットなんて使わないでくださいね」
彼はよく自分の書いた作品の批評を読みたがる。しかし彼が欲しがっているのは賛辞だけだ。甘い点を指摘されたり、不満を見たりすれば、それはもう見ているこっちが罪悪感を感じる程に涙を流し、わんわんと雄たけびをあげる。
その度に仕事が進まなくなってしまうのだから、担当しているこちら側としては面倒なことこの上ない。しかし彼の作品は面白く、特に中高生を中心とした若年層に人気がある。新作が発売されればそれは本屋で大きく展開され(もちろんこちらで色々手配しているおかげなのだが)たくさんの感銘の気持ちが手紙となって返ってくる。
それを一通ずつ読み、酷評を取り除いたものだけを先生に渡しているのだ。そこまで尽くしているのに、タオルで顔をごしごしと擦っている目の前の男は平然と言ってのける。
「だって北欧神話の資料が欲しかったから。図書館に行くの面倒だったし」
「言って下されば私が借りに行ってきますから。それに神話を調べていて、どうして先生の著書の批評ページに繋がるんですか」
「この前出した本は学園物だったから、学生の感想を聞きたかったんだ。学生はあんまり手紙送ってきてくれないからさ。なのにあいつらときたら、現実味がないとか、由美子と聡の出会いが不自然だとか……そんなことない、僕はあのシーンはあれが一番だと思ったんだ。大体あれじゃなきゃ最後の伏線回収に繋がっていかないじゃないか……!」
「先生泣かないでください。さっき顔洗ってきたばかりでしょう」
私は先生の肩を軽く叩く。しかしそれが引き金となったのか、また先生はわんわんと泣き出してしまった。
この人は作家――というか、自己表現する世界に向いていないのではないか。何度そう思ったことだろう。
「……だったら、書かなければいいのに」
ぽつりと呟いたその言葉は、先生の泣き声にすぐにかき消された。
しかし自分で放ったその言葉は、私の心に突き刺さる。何だか私も泣きそうになってしまった。だが先生のようにボロボロのTシャツで涙を拭うわけにはいかない。今日のスーツは高いのだ。
私は顔を振ると、先生の背中をぽんぽんと叩いて歩き始めた。
「ほら先生、こんなところで泣かない。泣くんだったら部屋に戻りましょう」
さて、傷つきやすいのは一体どちらなんでしょう。
『傷つく』
一.身体・器物などにきずができること
二.人の名誉・心情などが損なわれること