Precious&Precious
とある少女の失恋話
火照った大地を癒す夜の風。素肌を晒した身体にとって、それはぞくりとした寒さを感じさせるものでもあった。
冷えきった身体の中で、瞼だけが腫れたように熱い。大通りを走る車が、そんな自分の姿をあざ笑うようにライトで照らしながら走り去っていく。自転車もまた然り。巨大な車体を動かすという役目を終えた排気ガスだけが、僅かな異臭を残してはその場に漂っているだけだった。
私もまた同じように、夜道を漂っていた。交通量が多い道路とはいえ、やはり昼に比べれば喧騒はやや小さい。時々訪れる静寂は、漂っている最中の自分を嫌でも認識させるようで、たまらなかった。
自転車が通り過ぎていく。よれたスーツ姿の背中を見て、あぁ、違うと言葉にならない息をついた。
彼は、スーツは好まなかった。どちらかというとジャケットが好みで、過剰な湿気に支配されるこの季節でもそれを手放すことはなかったのだから。
あの人はどんな人生を歩んできたのだろう。家に帰ると誰が待っていて、誰と笑いあうのだろう。
別れを切り出されたのは突然のことだった。
週に二回の逢瀬を欠かさず、メールしている間も、電話している間も、心の底から押し上げられるような喜びを味わうことができた。
この大通りだって何度も通った。車を運転する彼は非常に神経質で、少し話しかけただけでも集中ができない、と跳ね除けられたものだった。しかし車から降りた後、やや角ばった、しかし優しい手を差し伸べてくれていたのだ。そして買い物をして、夕食を作る。その日で違うチャンネルの番組を見て他愛のない話をしては、くだらない事で笑いあっていた。
今度はここに行ってみたい、この芸人は面白いからチェックしよう、この料理は今度練習しておくね――。
視界が再び霞んでいく。朝に気合をいれて塗った特別用のマスカラが落ちることも気にせず、腕で目をごしごしと擦った。熱を孕んでいた瞼がじくじくと痛む。すぐ隣にあったコンビニから生じる強い光が怖くて、そこだけは早足で通り過ぎた。
結局家で練習していた料理を披露する機会はなかった。彼が好きだと言っていたアーティストも、もう聞くことはないのかもしれない。旅行雑誌だってチェックしていたけれど、もう見る必要はないのだ。
胸の奥が杭が打ち込まれたように疼き、胃がぎゅうっと押し上げられる。熱い息を吐き出しながら、惰性で動かしていた足を止めた。
どこで間違えたのだろう。
彼に尽くしすぎたところだろうか。重かったのだろうか。一緒にいても楽しくなかったのだろうか。
様々な点が水泡のように浮かんでは消えていく。それを飲み込むように息をすいこんだが、熱く震えた息が夜の冷たい空気と混ざりあって溶けただけだった。取り込むこともできないのに、一気に押し寄せる過去の思い出と彼の表情。どんなに望んでも、もう届かないという喪失感がだけがただ残っていた。そしてそれは私に一つの考えを齎す。
――死んじゃおうかな。
一メートル程右では、軽自動車やトラックが音をたてて通り過ぎていく。自分が三、四歩動くだけで、簡単に死ぬことができるのだ。
車に乗っている人はどう思うだろう。でもつい先日までは、私達だって平穏な幸せと、将来への期待を乗せて、同じ道を走っていたのだ。どうして今私が止まっているのに、周りは動き続けているのか。私が彼と走ってきた時間が無駄になったのに、どうして彼らは変わらずにいるのか。
私が死んだら、彼は泣いてくれるだろうか。後悔してくれるだろうか。もしかしたらこれがトラウマになって、これから人と付き合うことすらできなくなるかもしれない。それもいい。ふとした思い付きだったその考えは、周りを取り巻くように巨大化し、心を存分に沸き立たせた。引きつっていた顔を笑みの形にしようとしたが、ほんの少し頬と唇が引きつっただけのように思えた。
左にあるのはすでに営業時間を終えた本屋で、通りを歩いている人物は自分以外に見当たらない。横歩きで一歩右へ寄ると、車が通るたびに生暖かい風に体を撫でられる。道路と歩行者用の通路の間に段差があるせいか、車が彼女を意識して避けようとする気配はなかった。学生が左側を自転車で通り過ぎる際に、不審げな視線をちらりとよこしただけだ。
このまま、このまま。
倒れこめばそれでおしまいだ。私がどれだけ彼のことを思っていたのか証明してみせる。彼もきっと後悔する。一緒にいればよかったと言ってくれる。
辛さを分かって。一緒にいたかった。ずっと一緒だと思っていたのに。
拳だけを握り締めて、肩の力をふっと抜いた。理由もなく力を預けていた左足の力を抜いて地面から離し、右足にその分体重をかけて――ぐらりと、その場にしゃがみこんだ。
アスファルトの地面がぐんと近くに寄ると、息を吸うだけで口の中に土が入ってきた。土臭い。思わず咳き込んでしまい、握り締めていた拳をそのまま口元に持っていく。生理的に流れた涙はもう片方の腕で圧迫して押さえた。
胸が張り裂けそうな程に鼓動を刻み、収縮している。思い出すのは彼との思い出ばかり。今ではもう望むことのできないものばかり。それなのに、死という未知を目の前にした瞬間、体が竦んでしまったのだ。
震える体を抱きしめながら、私は思い知った。
私は、彼を愛していた。でも、全てを捨ててまで愛せなかった。
聞き慣れた音をたてて車が横を通り過ぎていく。完全に閉ざされた視界の中でも、白く眩いライトの明るさだけは感じていた。
彼の為ならば、きっとほとんどのものは捨てられた。けれど、全てを捨ててまで彼を愛することはできなかった。
そんな普通の、人間らしい感情が、今は悔しくて仕方なかった。
車の通り過ぎる数はいよいよ少なくなっていく。寒さを感じ、鳥肌をたてはじめた肩を抱きしめながら私は立ち上がった。ふらふらとまた歩を進める。春の夜に私がこうしていると、彼はいつもジャケットを貸してくれた。ほんの少し大きくて硬いその服と、そこに染み付いた彼の匂いに包まれて、私は胸をいっぱいにしていた。
全てを捨ててまで彼を愛することはできなかった。それでも彼を愛していた。
どこにも向けられない気持ちを抱えていた私を、白く古びた車が追い越していった。